第八章 イソップ物語
同じ職場で、仕事をする。そんな人生の目標は、意外にも早く達成できた。私にとって、サムさんはまるでアイドル。勉強でも、ライフスタイルでも彼女のようになりたいと思って頑張ってきた……そんな彼女と今日は同じベッドで、寝る。正直にいうと、サムさんの実際の生活は、私が知っていたのとはちょっと違っていた。雑誌のインタビューや、普段の服からは想像がつかない雰囲気。
サムさんは、派手な色が好きで、いつも最先端のファッションをしている。確かに、この家のデザインはモダンで、彼女のイメージと合っているけれど、インテリアの色は、ほとんどがアースカラー。全体的に落ち着いた暗めの色で、大半がグレー。派手なところもない。よく知られているイメージとは違っていて、シンプルなミニマリストって感じ。家の中に見つけた唯一の赤色は、化粧台に置いてある目立った色のリップスティックだけで、それ以外に、鮮やかな色のものはない。今、私が着ている、借りたパジャマでさえも。
「あんた、ピンクが好きなの?」
「はい?」
「あんたの下着がそう言ってる」
サムさんは、うっかりシャワールームに置き忘れていた私のブラジャーを手でつまんだ。慌てて、感情が読みづらいその人から、それを奪った。人の下着を使ってからかうなんて……その場から動けず、自分の顔が赤くなっていくのを感じる。
「下着をシャワールームに置いて、そのままにして……すみません。それから取って、持ってきてくださって……」
「渡したかった訳じゃないの。気になるから聞いただけ。なんで女性はピンクを好むんだろうって疑問に思って。なんか嫌じゃない?」
「ピンク色のものを使っているからって、必ずしも好きって意味ではないと思います」
「でも、あんたは鞄も、コンパクトも、ボールペンも全部ピンク」 何も考えてないみたいに、サムさんがそうやって言い続けるから、私は内心驚きながらも、しかめっ面をした。
「私のこと、よく知っているんですね」
一瞬、サムさんは動きを止めた。それから、口の端でちょっと笑って、振り返った。
「あんたのファンになったのかしら」
いつまでからかうつもりなの!?
「もう眠くなっちゃいました」
私は話を逸らして、綺麗に畳んでおいた会社用の服の内側に、急いで自分の下着を隠した。この家の主人に気づかれないところにしまおうと思って。
「寝るのが早いわね。いつもなら、夜中一時でもメッセージを返してくるのに」
「だって、サムさんが話しかけてくるから、それに返信をしただけです。それで、私が寝ていいのはどちら側ですか?」
「そっち」 サムさんはベッドの左側を指差した。そこはまさに、白いアルミフレームのガラス窓が近い方だった。相手がなぜそう言ったのかが手に取るようにわかって、私は自分のボスを見つめた。
「窓から餓鬼に見られるのが、怖いんですか?」
「叩くわよ」
サムさんは、責めるような視線を私に投げてきた。でも、もう全然怖くない。私はニコニコして、まるでホテルに泊まっているような気分になれるベッドに潜り込んだ。ベッドの主人が纏う優しい匂いが、私を包み込む。その香りで、思わずドキドキしてしまった。
サムさんの匂い、いい香りがするなぁ。
もうベッドに入った私に対して、サムさんはなぜかまだあっちに行ったり、こっちに行ったりを繰り返している。落ち着かない様子が気になった私は、ベッドに腰掛けて不思議そうに尋ねた。
「寝れませんか?」
「いつもの寝る時間じゃないだけ」
「サムさんは寝る時間が遅すぎます。頭痛の原因はそのことじゃないですか?」
「睡眠薬を飲まないと、あたし寝れないし」
「それはもっとよくないです。こっちに来て、寝ましょう。私が先に寝ちゃったら、餓鬼を一人で見ることになるかもしれませんよ」
サムさんは、ふうんと不機嫌そうに呟いたけど、素直にベッドに入ってきた。それから、さっきまで点けていたベッドライトを消して、オレンジの小さなライトだけを残した。でも、そのライトも眩しく感じるだろうと思って、私はサムさんを跨いで、勝手に小さなライトも消した。
「本を読んでいたのに。なんで小さいライトも消したの!?」
「もう寝ないといけません。サムさん、寝てください」 まずボスの手から本を取り上げて、自分側のベッド上に置いた。そして、隣の人が眠れるよう、その身体を押してベッドに横たわらせた。
「あんた、よくそんなことできるね。仲良くなりたいの? あたしのファン」
そんな風に注意をされて、感電したみたいにショックを受けた。ハッとして、相手から、慌てて手を離す。
「すみません」
「どうして、びっくりしているの?」 私がしたのと同じように、サムさんは私の身体をベッドに押して、横にさせた。「他の人に寝なさいっていうなら、あんたもそうしないとダメ」
「は……はい」
金曜日の午後十一時。どうしてかわからないけど、今、私とサムさんは同じベッドで、一緒に寝ている。ずっと憧れてきたアイドルが、隣にいるっていうだけで、心が躍っている。その上、他の人とお泊まりすることにも慣れていない私は、なかなか眠れなかった。普段は枕に頭をのせた瞬間、すぐに寝るタイプなのに。落ち着かなくて、ゴロゴロ動きまわっていた。でも、最終的に寝返りを打ったサムさんの顔が目の前に現れて、じっと眺めることにした。
部屋は暗かったけれど、目が徐々に慣れてきたみたい。はっきりとこの目で、美しいボスの顔を見ることができた。
ドキン、ドキン……。
心臓の音がうるさい。もしかしたら、目の前の人に聞こえちゃうかもって、怖くなってきた。でも、このドキドキは、お腹が鳴ったり、唾を飲み込む音みたいに聞こえやすいものじゃない。本当によかった。
「私、下の階で寝た方がいいかも」
「よくない」
「でも、まだ寝つけません。モゾモゾ動いていたら、サムさんが寝られなくなっちゃいます」
ポンッ。
サムさんが自分の腕を、私の身体にのせた。どうやら私が逃げられないようにしたいらしい。サムさんのその行動は、私にまたしても感電したみたいな衝撃を与えた。
「あたしが腕をこうやって置いたら、あんたは気を遣うだろうから、トイレにすら行けなくなる。もちろん、ゴロゴロ動き回ることも、ね」
「サムさん、ずるいです」
「身体が小さいね。収まりがいい」
「あら……サムさんは自分の身体がそんなにも大きいって言いたいんですか? ワット・スタットの餓鬼みたいに」
言い終わったと同時に、その人はすぐ私を自分の方へ引き寄せた。私の鼻が、サムさんの鼻に触れる。
「へっ……!?」
「もう一度、餓鬼のことを喋ったら、顔を噛むわ」
「わ……わかりました」
私は両手で自分の身体を守って、それから優しくサムさんを押しやった。目の前のその人は、抵抗しようとする私の行動に気づき、不満を感じたらしい。さっきよりも強く、私のことを抱きしめてきた。
「動いたら、給料減らす」
「私たち、近過ぎませんか? ちょっと……」 やんわりとした言葉で伝えようとしたけれど、私の言った意味を理解できなかったみたい。サムさんの表情が、しかめっ面になっていく。
「何がダメなの?」
「はっきり言いますが、ちょっと恥ずかしいです。なんというか……本当に距離が近過ぎます。もう餓鬼のことは話しません」
今、まさに顔から火が出そうだった。先にライトを全部消していて、よかった。そうじゃなかったら、恥ずかしくてトマト色に染まった私のほっぺが絶対にサムさんに見られてしまったと思う。ちょっと声が震えていたこともあって、サムさんが力を弱めてくれた。でも、あまり距離感は変わっていない。
「そんなに興奮してるの? 女性と女性がハグをするなんて、普通のことなのに」
「確かに友達なら、何も気にせず抱きしめられます。でも、私たちは……友達ではないし……。私は、仲良くなろうと下心で近づいてきた人ってサムさんに誤解されたくないんです」
「あんたは言葉を、深読みし過ぎてる」
サムさんはそう言って、顔の半分をアヒルの羽毛が入った枕に埋めた。それから、顔のもう半分で私のことを見つめた。
「あたしは、あんたに何も嫌な気持ちはなかったの。その言葉を使っただけ」
「あの時、サムさんは批判の言葉として使っていた気がしました。でも、もうこれ以上は話しません……一緒に寝ましょう? もう夜遅いです」
会話を終わらせて、もう目が合わないように反対側を向こうとした。でも、考えが読めないその人は、そうすることすら許してくれなくて。未だに彼女の腕は、私をロックしたままだった。簡単に離してくれそうもない。
「寝れない」
「あの……はい。どうしましょうか……?」
「何かお話を聞かせて」
「え?」
「童話……。あたしに童話を聞かせたら、寝るかも。それができないなら、なんとかして。窓から見てる餓鬼のことが忘れられない……あんたの責任よ」
まぁ、確かに。もし今日餓鬼の話をしていなかったら、こんな風に同じベッドで一緒に寝てなかっただろうし……。もしかしたら、私は家に帰っていたのかも。私には大きな責任がある。そう考えを巡らせてから、少し微笑んで、童話を話し始めた。
「じゃあ、カニの話をしますね。これはイソップ物語の一つです」
「聞かせて」
「昔々……」
「なんで童話って、『昔々』の言葉から始まるのかしら。現代から始まってもいいのに。なんか古臭い」
「じゃあ……今より少し昔の話ってことにします……カニのお話」 イライラして、ちょっとだけため息をついた。この人は本当、ややこしい人だなぁ。
「お母さんガニがいました……」
選んだ物語は、誰でも簡単に理解できる話。私も昔に、チラッと読んだきりだけど。内容は、ある母ガニが自分の子どもたちに、まっすぐ歩く方法を教えようとする話。でも、カニだから、結局お母さんにもできなかったってオチ。つまりこの童話の教訓は……他の人に何かを教えるなら、まず自分ができないとダメってこと。
一通り話し終えて、教訓の部分に差し掛かった時。
「この童話から、勉強できることは……」
「真っすぐ歩き続けなさい。じゃなきゃ、母ガニに怒られるってことね」
「……」
「……」
あまりにも自信満々に答えていたから、私は我慢できずに笑ってしまった。サムさんは、理由が分からないと言いたげに、どの雑誌でも見たことがない表情でこちらを見ていた。
「何か間違ってた?」
「あ、あのね……」 こみ上げてくる笑いが止められない。耐えきれなくて、声が震える。 「そんなこと言ってません。この話から分かるのは、他の人に何か教える時はまず自分ができるようにしないといけないってことです」
「あんたの話し方が悪いんだからね!」
笑い続ける私を見て、美しいその人は機嫌を損ねたようで反対側へ寝返りをうった。仲直りをしたい。でも、あまりにも可愛すぎて、笑いが止められない。
「サムさん、もうからかったりしません。すみません……でも、サムさん……可愛いです」
「あんたはあたしの友達と同じことしてる! みんなあたしがいつも話の大事な部分を分かってないって言うの」
「そんなこと言ってませんよ……ん?」 サムさんは背中を向けたまま、私を押してベッドから落とそうとしてきた。その意地悪に気づいた瞬間、サムさんを強く抱きしめた。ベッドから落とされちゃうなら、一緒がいい。
「もう笑わない?」
「笑いません。落ちちゃいます……私が落ちたらサムさんも道連れです。きっと痛いですよ?」
この勝負に勝ちたい。私は子猿みたいに、しっかりとサムさんにしがみついた。それでもサムさんはまだやめてくれなくて、私を落とそうと躍起になっている。それで結局……。
「きゃああああ」
ドサッ!
二人で、一緒にベッドから落ちた。私の頭は、固い床に直撃してゴツッと鈍い音を立てた。私の身体の上にのったまま、仰向けになっていたサムさんは、その音を聞いて、びっくりしたみたい。すぐに立ち上がって、私の様子を確認しようとベッドライトをつけた。
「大丈夫? 床に頭がぶつかって、すごい音が聞こえたけど」
「い、いたい……」
「床は傷ついた?」
「サムさん!」
「冗談よ」 真顔でそう言ってから、私の上に跨り、両手を私の頭の後ろに回した。
「ふーってしたら、痛みが消えるかな」
目の前の人が、可愛い表情をしているから私は驚いた。まるで小さい子のお世話をするみたいに心配してくれている。心臓がドキドキして、落ち着かない。ふーっとしていた最中に、固まっている私に気づいて、サムさんは息を吹きかけるのを中断した。それから、じっとこちらを見つめてきた。
ドキン、ドキン……。
ドキン、ドキン……
心臓が……。
「どうして、あんたの顔を見てると……」
「はい……」
「心臓がこんなに速くなるのかな」
第九章につづく
こちらはGAP Pink Theory配信版です。
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