第六章 グルメサイト
混乱している。だって、私は今あのカークさんと一緒に、サムさんの高級車に乗っているから。オーナーと社長。そんな二人と同じ車で移動を……あまりの緊張で身体がこわばっていく。正直、エアコンがよく効いているこの車よりも、三回も乗り換えないといけない、いつものバスで帰る方が落ち着く。
「こんなにも遠いところに住んでいるのかい? どうやって会社に来ているんだ? 何時に起きているの?」
地図アプリでルートを確認しながら、目を丸くしているカークさんは私に質問をした。サムさんは静かに黙っている。でも、気になっているみたいで、バックミラー越しに私を見つめた。
「朝の四時に起きます。それからシャワーを浴びて、五時には家を出ますね。七時に会社に着くので、そこで朝ご飯を少し……」
「そんなサバイバルみたいなことをしているの? あまりにも遠すぎる。どうして家の近くで仕事を探さなかったんだい?」
だって、家の近くにはサムさんがいないから。でも、もう別にいい。今は考えが変わったんだもん。
「そうですよね、家の近くで働こうかなって考えています」
三人の間に重い沈黙が流れている。サムさんは私をじっと見ながら、ついに閉ざしていた口を開いた。
「家の近くで働きたいと思っていたなら、なぜうちの会社に応募したの? あんたは働きたがっていた人のチャンスを奪ったのよ」
いつもと声色は変わらないけど、冷ややかな言葉だったから、私は負い目を感じて小さくなった。
「申し訳ありません」
「なぜ謝るの?」
「私は、またサムさんを怒らせてしまいました」
震える声で答えて、膝に置いた自分の手に目をやった。
「怒ってない」
言葉の上ではそう話しているけど、声は完全に嘘だって言ってる。私達の様子を見て、カークさんは咳払いをした。
「サムは怒っていないよ。本当に怒っていたら、こうして一緒に車に乗ってモンちゃんのことを家まで送ったりしないさ。仕事が終わったら、普段のサムは寄り道もせず、真っ直ぐ家に帰るからね」
勝手に代弁されたその言葉が、気に入らなかったみたい。サムさんはカークさんを目で制した。多分、カークさんは、場の空気を良くしたかっただけ。でも、あまり上手くいかなかったみたい。
車に乗ってから、一時間が経った。やっと、私の家に到着。サムさんとカークさんは塀を見て、気になったように質問をした。
「ドラマに出てきそうな、小さくて可愛い家だね。バンコクにこんな家があるんだ」
「ただの古い家です。可愛くありません」
「古い」家を見ながら、いつもと同じ調子でサムさんがそう言った。「絶対、夜中に何かが歩く音がするわ。ザッ、ザッ、ザッってね。それから、ベッドの下から何かが這い出して……」
「サム、人の家だよ」美しいその人の想像が広がり過ぎないように、カークさんは言葉を遮った。
「それに、これはモンちゃんの家だ。怖いなんて言ってさ。相手がどう思うか考えてみて」
「あんたのベッドって下に隙間ある? 何かが這い出してくるかもしれないよ……」
「ないです」
「なら、いいわ。あると怖いから。それと、ライムをベッド下に落とさないように。じゃないと長い手が……」
「サム。これはマーグ*の家じゃなくて、モンちゃんの家だ」
私はサムさんに一瞬だけ目を向けた。この甘い顔の人は本当に可愛い。でも、さっきの「人からチャンスを奪った」という言葉を思い出して……すぐに悔しいような悲しいような気持ちがぶり返してきた。
「では、こちらで失礼します。カークさん、サムさん、ここまで送って下さってありがとうございました」
二人にワイをして、ゆっくりと車から降りた。家の前ではノップが待っていて、私に声を掛けてきた。高級車から降りてきたのを見て、驚いたみたい。走ってくる。
「今日はこんなに大きな車で帰ってきたのか。なんで?」
「ボスが送ってくれたの」
「モンのボスは優しいなぁ……。こんばんは」
車の窓を下げてカークさんが顔を出すと、ノップはすぐに挨拶をした。
「モンを送って下さって、ありがとうございました」
「いやいや。少し怒りっぽい子に見えたから、ちょっとご機嫌を取らなきゃってね」カークさんはニコニコと話した。「彼女には、それができそうもないから、代わりにやってあげたんだ」
「話し過ぎ。行くわよ」
カークさんは私に、満面の笑顔でさっとウインクをした。それからサムさんがすぐにアクセルを踏んで、二人は去っていった。何も知らないノップは、困惑したみたい。こちらを見て、カークさんが話していたことってどういう意味?と言いたげだった。
「ご機嫌を取るって……なんかあったのか?」
「そうね。なんだろうね」
「っていうか、なんで今日はボスに送られてきたんだ?」
「どうしてなのか、私にもわかんない。身体が痺れちゃった。それくらいずっと一緒に乗っていたんだけどね」話を続ける前に、ため息をついた。
「会社を辞めなきゃいけないかも」
「え、なんで!?会社に入るの苦労してたじゃん。それに、サムさんがいるだろ」
「サムさんがいるから、辞めたいの」
「え!?」
「早く家の中に入ろう」
「なんで俺に八つ当たりするんだ」
もはや返事をしなかった。折角、友達が心配そうに家のまえで待ってくれてたっていうのに。こんなことをしちゃうなんて、きっと私は性格が悪い。サムさんと一緒に帰ってきたけど、今日は本当に気分も悪い。
でも、サムさんのおかしな行動は、まだ終わりじゃなかった。夜中の一時になると、またスタンプが送られてきたから。サムさんはこの前と同じことをするかな。そう思って、携帯の通知音は切らないでおくことにした。
どうしてレディは酷いことばかり言ってくるのに、こんな風に私に連絡してくるんだろう……そんな風に考えを巡らせていたら、やっぱりまたスタンプが送られてきた。
私は、ただメッセージを読むだけ。返事はしない。きっと既読の文字が表示されているだろうけど、何もせず、待つことにした。そうしたら、サムさんは一分ごとにスタンプだけを連投してきた。
ボス:なんでまだ寝てないの?
数十個ものスタンプが届いた後に、サムさんは初めて文章を送ってきた。ようやくサムさんから文章が送られてきたことに、少し胸がドキドキする。
モン:もう一時なのに、誰かさんからスタンプが届いて、眠れないからです。
返事をしてから、三分は何も反応がないままだった。
ボス:なんであたしの質問に返信したの。
世の中にはこんな人もいるんだ。メッセージを読んでから、あえてサムさんがそうしたみたいに少し時間をおいてから返事をした。私たち、何をしているんだろう。チャットで駆け引きでもしているみたい。
モン:サムさんの独り言みたいになっちゃったら、寂しいですよね?
ボス:何かがベッドの下にいるみたい。気をつけて。
思わず、頬が緩んだ。私たちは今、前よりもずっと自然に、たくさん話せている。会社だと、お互いに顔も見ないし、一言も話さないのに。私の机を飲み物でいっぱいにした今日の“あれ”を除いて、の話だけど。
モン:ベッドの下にいる何かよりも、お部屋の天井に張り付いている何かの方が怖くありませんか?
既読はついたのに、急に返信が途絶えた。心配になって、続けてメッセージを送ってみる。
モン:サムさんのベッドは二人でも寝られる大きさですか?
ボス:そうだよ。
モン:じゃあ寝返りをしたら、隣に何かがいるかもしれませんね。気をつけてください。それでは、おやすみなさい。
私は笑って、携帯を置いた。なのに、画面はずっと光っている。どうやらあの人は、何かメッセージを送り続けているらしい。寂しがっていそうなあの人を、怖がらせてみたい。それに、ちょっといじわるをしたくて、読まずに無視することにした。だってあの人のせいで、今日はずっと気分が悪かったんだから。
その作戦は、意外にも上手くいったみたい……翌日の朝、サムさんは明らかに寝不足だった。濃い化粧で隠していたとしても、動きがなんだかすごくフラフラしている。甘い顔立ちのその人は、オフィスに到着すると、目の端で私を捉えた。まるで信用ならないって言いたいみたいに、じっと私を見つめ、目を逸らさずにこちらへ近づいてきた。
「昨日の夜、あんた私のメッセージを無視したわね」
私はもう笑いが隠しきれなくなっていた。でも、あたかも自分には関係ないと言う顔をつくった。
「もう眠かったんです。それに家が遠いので、早く寝ないと」
「じゃあ、あたしに連絡してきた理由は? なんで?」
「先に始めたのは、サムさんでしょう?」
「あたしの横で寝てるお化けの話は? どうしてあんなこと言ったの」
「なら、どうしてサムさんはベッドの下にいるお化けの話を始めたんですか?」
しばらく、じっと目で張り合った。サムさんは頬を膨らませてから、自分の仕事部屋へ戻っていった。
「今日は寝不足のせいで、絶対に頭が痛くなっちゃうわ」
そう言い残して、あの人は部屋に戻った。そして、自分のプライベートを守りたいとばかりに、部屋の壁をすりガラスモードに変える。雑誌のインタビューには載っていないサムさんのことを、また知っちゃったみたい。サムさんはオバケの話が苦手。あの様子だと、昨日の夜は、きっと怖過ぎて、眠れなかったんだ。そういえばさっき、今日は絶対体調が悪くなるって言ってたな。
嫌……もう心配しないって決めたの。じゃないとまた友達になろうとしてるって疑われちゃうかもしれないもん。
でも、今日のレディ・ボスはなんだかいつもよりも静かだった。昼休みの時間になったのにあの部屋から出て来なくって。みんなはご飯を食べに出かけていく時も、私はずっと気がかりだった。だから、入社したてにも関わらず、仕事が忙しいようなふりをしてオフィスに残ってて……やっと、誰もいなくなったのを確認してから、あの部屋にいる美しい人が無事なのか確かめにいくことにした。
コン、コン……
反応が、ない。最初は、話しかけるなんてやめようと思ったけど、私の中にある、ありったけの勇気をかき集めて、慎重にドアを開けた。サムさんはソファーで横になっていて、電灯の光が眩しくないように、手で顔を隠している。
寝不足で、頭が痛くなっちゃったのかな……。
「入りたいなら、さっさと入って」サムさんは顔から手を離した。
「ストーカーなの?」
「寝てなかったんですか?」
「頭が痛過ぎて、寝れなかったの。誰のせいだと思ってるの?」
そう言われて、静かに足を踏み入れた。頭が痛いと言っているその人を見て、早くも後悔を感じていたけど、態度には出さずにいた。
「そうなんですね。誰のせいかなぁ」
「なんで入ってきたの?」一瞬黙って、急いで答えを探した。でも、サムさんは私の答えを待たず話し始めた。
「あたしが心配?」
「いえ」
「目の前であたしが死にかけていても、無視するって言ってたでしょう? あんたの言葉信じられない」
「じゃあ、失礼します」
ちょっとイライラしながら相手を見つめ、部屋を出ようとした。出る直前に、何を考えているかわからない私たちのレディ・ボスは突然一人で喋り出した。誰かに何か伝えようとしてるみたいに。
その誰かは、きっと私のこと。
「お腹すいた」
「……」
「プラップ・プラチャイ*にあるノン・エーンのクアガイ*を食べたい。それかパーツナム のカオマンガイが食べたい」
「……」
「おなかすいた」
肺いっぱいに深く息を吸い込み、イライラした雰囲気を醸し出しながら、そのお喋りな人を見た。内心、可愛いって思いながら。
「配達アプリで注文してください。最近は、会社に配達できるのもあるので」
「今じゃない、晩御飯がいい。ノン・エーンのクアガイは夕方からだし」
「美味しいお店は夕方から開店するんですね。分かりました。覚えておきます」
「一人で食べると美味しくない」
これが人を誘う方法?なんて返したらいいか分からない。思わず、目が泳いでしまう。
「薬を飲めば、夕方には頭の痛みも消えてるなぁ。そうしたら運転して、お店に行けばいいしね」
「いいですね」
「すごく美味しい」
「そうですか」
「本当においしいのに」
「……」
「クアガイ以外にも、タイ風揚げ餃子もクイティアオ・ナム*もある。もし、クアガイが好きじゃないなら、隣にも美味しいタイすき焼きもある。お店の住所はお寺とフアチュー病院*の近くだなぁ……」
「サムさんは今、私を食事に誘ってる……ということで合ってますか?」
あまりにも遠回しな言い方で眩暈がする。だから、正直に、ストレートな質問をした。サムさんは一瞬黙った。
「別に、誘ってない。グルメサイトのWong Nai*みたいにお店を紹介してみただけ」
「美味しそうに紹介してくれましたね。でも私のお昼ご飯の時間が、もうこんなに過ぎてしまいました」
「それかサオチンチャー*の辺にあるティのエンタフォー*を食べようかなぁ。めっちゃ美味しいし」
「私も、ご一緒していいですか?」
我慢の限界で、話を遮った。サムさんがグルメサイトの運営者みたいに振る舞っているのをみたら、今までの恥ずかしさがどこかへ消えていたから。
「あら、一緒に食べたかったの? ならもっと早く言いなさい。しょうがないわね。そんなに行きたいなら、許可してあげる。仕事が終わったら、車で待ち合わせよ。あ、そうだ……外に行く時は、コンビニで何か食べ物を買ってきて。空腹で薬を飲むのは良くないから」
言いたいことを矢継ぎ早に話し終えると、美しいその人は手を顔に戻して、再び寝る体勢になった。状況がまだ飲み込めていない私を置いてきぼりにして。開いた口が塞がらない。
世の中にはこんな人がいるの!?
第七章につづく
*マーグ
「メー・ナーグ」という幽霊の物語の主人公。メー・ナーグはマーグと結婚していたが、妊婦のメー・ナーグは戦争でマーグが家から離れている間に死んでしまい、恐ろしい幽霊に変わった。
*プラップ・プラチャイ
バンコクにあるエリアの一つ
*クアガイ
タイ風の焼きそばで、鶏肉や卵と炒めたもの。
*クイティアオ・ナム
タイ風ラーメンの一つ。
*フアチュー病院
バンコクにある有名な病院。
*Wong Nai
タイの有名なグルメサイト
*サオチンチャー
バンコクにある有名な観光地。
*エンタフォー
タイ風ラーメンの一つ。
こちらはGAP Pink Theory配信版です。
無断転載等は一切禁止いたします。詳細はこちらでご確認ください。
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