第五章 仲直り
今日、私の目はコブミカン*みたいに腫れていた。今朝のことを思い出すと悔しくて悲しくて、一時から三時まで泣いていたから。遅刻するのが怖くて朝五時に起きてシャワーを浴び、出勤した。会社の先輩たちはゾンビみたいに生気がない私の様子を見て、昨日サムさんが冷凍庫に呼び出したことが原因ってすぐに思ったみたい。
「入ったばかりなのに、レディ・ボスに怒られたんだ。可哀想に」
そんな言葉が聞こえてきたけど私は一言も返さず、ただ作り笑いで対応しながら、仕事を始めた。サムさんはいつも通り、始業時間ピッタリの出勤。でも、今日は何かがいつもと違う。
あの冷凍庫はいつも中が見えないすりガラスで囲まれているけれど、今日は中が見通せるように透明になっている。これは私も知らなかった最新の技術で、リモコンを使えば指一本で簡単にガラスのタイプを変えられるらしい。
オフィスにいる先輩たちは、いつもみたいにお喋りをしていない。その代わりに、みんな慌ただしく携帯を見たり、姿勢を伸ばして仕事をしている。ガラスが透明モードになっているから、サムさんの席から全て見えてしまうのを恐れているのかも。その一方、私は、落ち込みすぎて、サムさんの姿を見られたのに、今日はワクワクしなかった。むしろ、目に入らないように興味がないフリをしていた。私はまず自分の仕事に集中しなきゃ。今日が無事に終わるまで我慢しよう。頑張ろう、私。
カタカタッ、カチッカチッ。オフィスではキーボードとマウスの音だけが響いている。まるであの部屋にいるレディに聞こえるようにと、わざと大きな音で仕事をしているみたい。みんながストレスを感じて緊張しているのが伝わってくる。サムさんがこっちを見ている、そう考えただけでそろそろ誰かが発狂しそう。
少し時間が経って……私たちのボスが明るい笑顔であの部屋から出てきた。
「みんな、よくやってるね」
この会社に来てから、初めて見たサムさんの笑顔。ただ、オフィスのみんなはさっきよりも一生懸命に働こうとしているみたい。誰もが自分の仕事から目を離さないようにしていて、何か怖がっているような感じ。
「ちょっとお土産を買ってくるわ」
そう言ってサムさんはオフィスから出て行った。
「きゃあああ、死ぬかと思った。うわぁ」
隣の席のヤーさんは頭を抱え、他の人たちも一斉に大きなため息をついた。まるで溺れて死にかけていたところから、息を吹き返したみたい。
「今日は気分がいいみたいですね。サムさん」
「あれは気分が悪いってこと」
ヤーさんは顔をしかめながら私の方を見た。
「レディが笑って、普段と違った態度をとるときは、何かに悩んでいるときなの。間違いなく、今日は全員残業ね」
みんな同じことを思っているみたいな顔をしていた。ほっとしたのも束の間。サムさんがお菓子の袋をいっぱい抱えて帰ってきた。そして、そのお菓子をみんなの席に適当に配り歩いている。
「飲みなさい。仕事を真面目に取り組んでいるご褒美よ」
サムさんが目の前で立ち止まって、私の机にヨーグルトジュースを置いた。私は、サムさんの方を向いて、ただワイを返した。
「ヨーグルトジュースは好きじゃないの? なら、牛乳を」
いつもと様子が違う美しいその人は、ヨーグルトジュースの隣に牛乳を置いた。私が何をするのか待っているみたい。さっきと変わらずにワイをして、真剣な表情で仕事に戻った。
「ジュースもあるわ」
「……」
「ナチュラルウォーター」
「……」
「ミネラルウォーター」
「……」
「お茶」
もはや、私の机に飲み物を置くスペースはなくなっていた。私は一言も返さず、飲み物が置かれる度に、サムさんに顔を向けてワイをしただけ。一つ気になったのは、どうしてサムさんは誰よりも私の机に時間をかけているのかってこと。
「あんたの好きものはなんなの?」
「何も好きじゃありません」
「人間じゃないのかしら。絶対に何かあるでしょう?」
「オフィスで飲んだりするのはよくないと思います」
「そう? あたしは飲むけど」
サムさんは私の机に置いた大量の飲み物の中から一つ選んで、蓋を開け、ストローを刺して飲み始めた。今日のボスは、いきなりとても近くにきたり、唐突に飲み物を飲んで見せたり……どうやら普段からやっている事ではなさそう、と少しだけ怖くなってきた。
余計な心配をしちゃうな……。
「サムさん、暇なんですか?」
ありきたりな質問だと思っていたのに、近くで飲み物を飲んでいたボスは私を見て頬を膨らませた。どうやら私は失礼なことを言って、サムさんを怒らせてしまったみたい。
「私に暇なんてない。ただ、飲み物をあげたかっただけ」
そう言い残して、サムさんは冷凍庫に帰っていった。部屋のガラスはそのまま透明モードになっている。でも、周りの先輩たちは安心したみたいで表情を和らげた。さっきのように近くにサムさんがいるより、透明モードだとしてもあの部屋にいてくれる方がいいってことらしい。
やっと重苦しい張り詰めた時間が終わって、昼休み……。
でも、誰も動かなかった。なぜって、冷凍庫は透明なままで、中であの人がまだ座っているから。上司がご飯に行かないのに、誰か行けるっているの。
ドクッ。
ドクッ。
ただご飯に行くことが、こんなにも大変なんて。今の状況は、休憩を取ることすらとても難しく感じさせる。なぜサムさんは今日お部屋のガラスを透明にしたのかな。それは、私たち全員にこんなにもプレッシャーを与えるのに。
お昼休みはもう十分も過ぎてしまった。でも、まだ誰も立とうとしない。ヤーさんは他の先輩たちと目配せし合って、最初に立ち上がる勇者を探しているみたい。
ついに……。
「なんで今日はみんなこんなに頑張っているんだい? ご飯を食べたくないのかな……? あれ、今日は壁を透明にしているんだね」
この会社のオーナーで、サムさんと長く付き合っている彼氏のカークさんは透明モードになっているあの部屋を見て、驚いたみたい。部屋のドアを開けて、二人で何か話し始めた。それから間も無くして、二人一緒に部屋を出て行った。お昼休みを心待ちにしていた会社のみんなは、目の前のキーボードやマウスを投げ出さんばかりに遂にやっと……!と喜んだ。きっとエベレストを登り切ったときはこんな表情だと思う。
「やっと、ご飯の時間だ」
先輩の一人は泣きそうな顔をしていたし、隣のヤーさんも疲れ切った様子で私の方を向いた。
「今日のボスは珍しいねぇ。壁を透明にして、お菓子まで買ってきてさ。私たちみんな不安になったよ」
「ただの優しさかもしれません」
「それはないよ」
後ろの席にいる同僚、ナムプンが話に入ってきた。
「レディ・ボスがいいことをしてくれる時ほど、安心できないから。特に、モンの机には飲み物をいっぱい置いてたじゃん? 絶対目をつけられているよ。何をしでかしたのか正直に言ってみて」
馴れ馴れしい人って思われたから……。
そう話したら、同僚からも嫌われてしまいそうで言いたくなかった。確かにサムさんと仲良くしたい。でも私が取った行動は、決してそのことが理由じゃなくて。
もし本気で仲良くなろうとするなら、もっと違うことをするんじゃないかな。
まぁ、それはそれで置いておこう。
オフィスを出る時間が遅くなってしまって、みんな仕事に戻るタイミングが間に合わなくなりそうだった。だから、お昼ご飯を急いで済ませたんだけど……そうしておいて良かったみたい。なぜかって、レディ・ボスは時間通りに戻ってきて、まだ部屋のガラスを透明なままにしていたから。
さっきと少し変わったところを挙げるとしたら、カークさんが一緒なことくらい。でもその後すぐに、カークさんは内緒にしたいことがあったみたいで部屋のガラスを透明から、すりガラスの状態に変えた。
ルルル……。
私の机の電話が鳴った。みんなの視線がこちらに集中する。全員が私と同じく、電話をかけてきた相手が誰なのか分かっているみたい。ゆっくりと受話器を取ると、カークさんの声が聞こえた。
「コンカモン*さん、ちょっと部屋に来てくれないか?」
電話を切って、難しい顔をしながら唾を飲み込んだ。先輩たちが「あの人だよね?」と言っているような表情で私を見ている。何も言葉は返さずに、ただ真っすぐ冷凍庫に向かった。ドアを開けた瞬間、今の段階で一番恐れている人が目に入ってきた。
「お疲れ様」
ソファーに座っているうちのイケメンオーナーさんと、サムさんに両手を合わせてワイをした。コーヒーテーブルにはたくさんの食べ物と飲み物が置かれている。そっか……だからすりガラスの状態に変更したのね。仕事中にお菓子を食べているところを、誰にも見られないように。
「サムが頼んでいた履歴書はこの人だったのかい……? 写真よりも綺麗な人だね。可愛い感じ。二十二歳なんだ」
カークさんの話し方は、親近感が湧く。私は表情を変えずに、ただ頷いた。
「身長はサムと同じだね」
「あたしより一センチ低いよ」
イケメンの彼氏さんにも、サムさんは「あたし」という言葉を使っていて、思わず可愛いって思った。
「そんなの、同じだよ。一緒に歩いた時、どっちが背が高いか分からないだろう? 自分と同じ身長の子に会って、どうかな? うちのちびっ子ちゃんはもう寂しくないかな?」
カークさんはサムさんの頭に手を置いた。けれど、それが煩わしいと言わんばかりに、サムさんは軽く手で払った。
「邪魔」
「触っただけじゃないか……コンカモンさん。いや、モンちゃん、もう食事は済んだ?」
カークさんは私をニックネームで呼んだ。誰に聞いたのかは予想がついている。きっとサムさんだろう。私は自分のことを話すときに、「私」の代わりに「モン」って使っていたから。
「もう食べました」
「食べたとしても、もう少しだけ食べられないかな? ちょっと手伝って欲しいんだ。お菓子が多すぎてね」
私が呼び出された本当の理由は何ですか?とは言えなかった。ここにいる二人は地位と職務で、私に何でも指示ができるから。たとえ、一日中ずっとここに立っていろなんてことでも。
「サムはモンちゃんの話を、いっぱいしていたよ」
「え?」
サムさんは彼氏の方を向いて、嫌味っぽくにっこりと笑顔を作った。
「喋りすぎよ、カーク」
「サムの笑顔、僕好きだな」
そんな風にカークさんから褒められた瞬間、甘い顔立ちのあの人からすぐに笑顔が消えた。
「呼び出した理由は、特にないんだ。ただ、モンちゃん本人を見てみたかったからなんだ。お昼ご飯を食べに行った時、サムはずっと君のことを話していたから。新入社員なんだよね?」
サムさんが私のことを……。
「はい、まだ入ったばかりです」
「前から知っている人なんじゃないかって、サムはずっと気になっているらしいよ」
まだ気になっていたんだ。だから、自分の彼氏に私のことを話していたのね。私を怪しい人だって疑っているのかもしれない。
「会ったこと、ありません」
「ならどうして、あたしを助けたりしたの?」
サムさんは我慢できないとでもいうように、突然会話に入ってきた。
「知らない人なら、助ける意味なんてないわ。やっぱり私に近づこうと……」
「サムさんの体調が悪そうだったので、心配でした。仲良くしたいから助けようなんて気持ちではないです。それが、ワンちゃんでも、ネコちゃんでも。私の目の前で誰かが弱っていたとしたら、その場を離れません」
「そうなの?」
みんなが恐れるあのレディ・ボスに長々と反抗する私を見て、カークさんは手を口に当て、驚きの表情を浮かべた。その様子が目に入りながらも、黙ることはできなかった。
「安心するなら、サムさんがいくら体調が悪そうでも、これからは無視します。私の前で死にそうになっていても興味持ちません」
「あたしがあんたの前で死にかけていても?」
「はい。私の前で死にかけていたとしても、サムさんがいないフリをします。私たちは友達でも何でもないですから」 そう言ってから、ボス二人にワイをした。
「仕事がまだたくさん残っているので、失礼します」
強気な姿勢を崩さないまま、部屋を出た。まさか大好きなアイドルに向かって、こんなことをするなんて……想像もしていなかった。こんなに目をつけられちゃって、間違いなく3ヶ月の仮採用も不合格だろうな。別にいいけど。サムさんにあんな疑いの目で見られるくらいなら、離れた方がいい。私はここで働いても、幸せな気持ちを感じられないだろうから。
むしろよかったんだ……会社に行くだけで大変だったんだから。無理はやめよう。
終業時間になって、みんなはそれぞれ帰って行った。カークさんも帰っていたけど、サムさんはまだ、あの部屋にいるみたい。でも、今日は前みたいに心配なんかしない。待たずにさっさと帰るんだから。そう思っていたのに、エレベーターの前でカークさんが爽やかな笑顔で待っていた。
「モンちゃん」
「カークさん……。お疲れ様です」 今日はもう会っているのに、また丁寧に挨拶をしちゃった。
「もう帰られたと思っていました」
「サムを迎えに来て、今待っているところなんだ。モンちゃんにサムの体調があまり良くないって聞いていたからさ。心配になって。今日はちゃんと彼氏らしいことをしようってね」
「素敵ですね」
どうしてカークさんが私を引き止めたのか分からない。私はただの新入社員なのに。
「モンちゃんはサムと喧嘩でもしたのかい?」
「してません」
「サムがいても立ってもいられないみたいなんだ」
すごく驚いて、カークさんに目を合わせた。いても立ってもいられないって……サムさんのイメージから、あまりにもかけ離れてる。
「きっと誤解です。知り合いでもないし、それに……そんな風には見えませんでした」
「信じて欲しいな。サムは君に興味がありそうだ」
特別大したことを言われた訳じゃないのに、恥ずかしくなってきた。赤くほてった頬に両手を当てる。この気持ちは何?
「モンちゃんがサムのことを心配してくれて、彼女、どうやら親しみを感じているらしい。普段、誰一人としてサムに近寄らないから。気に掛けてくれる人が現れて、どうすればいいか分からなかったみたい。それで、変なことをしちゃってさ」
「変なことですか?」
「そう……例は挙げられないけど、サムはモンちゃんに何か変なことをしたんじゃないか? よく思い出してみて」
思い返せば、サムさんは真夜中にスタンプを連続で送ってきたり、私の机に飲み物をいっぱい並べて、溢れかえらせたりしていた。それに、あの部屋のガラスを透明モードにしていたことも、今まで見せたこともない笑顔でオフィスのみんなにお菓子を配っていたことも……確かに、どれもいつもとは違っていること。でも理由が分からなくて、私は眉間に皺を寄せた。
「そうですね……思い当たることがあります。今日サムさんが、私に飲み物をたくさん買って来てくれました」
「本当?」 カークさんは笑った。
「その前に喧嘩をしたとか?」
「少し、サムさんに叱られました」
「馴れ馴れしいって言われたんだろう?」
私は顔を上げて、カークさんに目を合わせ、恥じらいながら僅かに頷いた。
「サムは後悔して、きっと仲直りしようとしているんだ」
「え?」
心臓がドクンと跳ねた。だって「仲直り」だなんて、友達かそれ以上の関係の人にしか使わない言葉でしょう?でも私は、あの人とは何の関係もなくて、一新入社員で、ただの部下。なのに、仲直りしたいってなんだか……。
きゃあああ。心臓の音が速まっていく。
「ちょっと変わっている人なんだ。彼女の言葉を信じずに、本当はどうして欲しいのか、考えないとね。サムがこれ以上イライラしなくて済むように、それからモンちゃんをなだめるために。今日は私とサムで、モンちゃんを家まで送るよ」
えっ?
第六章につづく
*コブミカン
東南アジア原産の柑橘類の一種で、タイ料理によく使われる。でこぼことした見た目をしている。
*コンカモン
モンの本名
こちらはGAP Pink Theory配信版です。
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