top of page

ギャップ・ピンクセオリー|第一章 レディ・ボス



第一章 レディ・ボス


「生まれてはじめて……」


 デジタルメディアの制作会社で研修を受けていた私は、エアコンの風があたる涼しい所で立ち止まり、鼻歌を歌っていた。隣には、コンテンツ制作部の先輩が、どこに何がある、と詳しく案内をしてくれている。でも、私はそんな先輩のことを見ていなくて、その上、話すらもあまり聞いてなかった。なぜって、私の目は、この会社の一番偉いボスで、自分にとってのアイドルである、あの人の部屋に釘付けだったから。


 案内をしてくれた先輩のヤーさんは、怒ったようにこちらを見た。ただ、あの部屋を気にする私の様子を見て、何故なのかを理解できたらしい。すりガラスで中が見えないあの部屋からは、白い光だけがわずかに漏れている。


「あの部屋を見るだけでビビっちゃうよね……。でも、あなたは新入社員だから、レディ・ボスに関わらなくて済むわ」

「レディ・ボスですか?」

「そう。ここで働いている人は全員そう呼ぶの……。だって、うちのボスは『レディ』だから。入社する前から知っていたんじゃない? 有名な話よ」


 私は頷いて、少し微笑んだ。もちろん……あの「レディ・ボス」のことはよく知っている。この会社に入ると決めた唯一の理由が、あの人だから。  あの人みたいになりたくて、私がどんなに頑張ったのかきっと誰も知らない。

「本採用になったら、モン*は、レディ・ボスに会えますか?」


「あら、あなたのニックネームはモンなのね」

 そう言ってヤーさんは私に微笑んだ。それと同時に、目尻に年上だとわかるシワが現れた。

「合格する前にも会えるわ。でも、どのくらい話せるかはまた別ね。新人が社長に相談することってまずないから」

「チャンスはないんですね……」


 がっかりして肩を落とした。まぁ、確かに。まだ試用期間中だから、社長で有名人のボスに話しかける方法はないかもしれない。今は、この会社で一番新しい社員なんだから。しかも、これからは色んな厄介事が待ち受けているんじゃないかって、自分の今後が心配だしね……。

「チャンスが全く無いってこともないわ」

 その言葉で、嬉しくなった私は姿勢を正して、満面の笑みを見せた。その様子をチラッとを見たヤーさんは優しそうな笑顔を浮かべながら、首を傾げた。

「あなたの笑顔って、すっごく元気が出るわね。レディと違って……あの人は全く笑わないから。今まで幸せなことが、一度もなかったんじゃないかって気になるくらいにね」

「サムさん……あ、レディ・ボスは」

 違和感がないように、途中で言葉を止めて会社のみんなと同じ呼び方に合わせた。

「私が読んだ雑誌では、笑っていましたよ」


「仕事で必要な時だけにね。いつもは明るい表情を見せないから、みんな怖がってるの。だからあの部屋にいてくれた方が、マシ」


 ヤーさんがレディ・ボスをあまり好きじゃないように見えるのはどうしてだろう。私が大好きで、すっごく美しいあのアイドルは、いつも明るいはずなのに。

 何年経っても、ずっと美しいあの人に憧れてる。あの人の事なら何でも知ってるの。昨日の晩御飯は日本料理だったって……そんな事まで。インスタグラムもフォローしてるからね。

「私が会えるのはいつですか?」


「今年は売り上げが大幅に上がったから、会社オーナーのカークさんが今晩みんなにご馳走してくれるんだって。ただ、映画の『フェーンデイ*』のワンシーンみたいに、北海道まで連れて行くようなのとは違って、普通の会社パーティーだけど」




 淡い期待は、一瞬で消えてしまった。でも今の景気を考えると、企業がどんな状況なのか何となく分かる。ご馳走してもらえるだけで十分すぎるかもしれない。

 その場を離れようとした瞬間、ちょうどあの秘密の部屋の扉が開いて、待ち焦がれていたその人が現れた。興奮で、心臓がドキドキする。胸の内でうっとりしてるってバレないよう気をつけながらも、恥ずかしくて顔を隠した。

 まるで、密かに先輩のことを想ってるラブストーリーみたい。シャネルの五番の香りが、部署全体に広がって、華奢なあの人はオフィスの凍った空気感と共に消えた。みんなの張り詰めた気持ちを感じる、全員が緊張してたみたい。

「はぁ……危なかった」

「どうしてみなさん、そんなに緊張していたんですか? 石みたいに固まっていましたね」

「モンちゃんも、顔を隠してたじゃない」


「それは……」

怖いからじゃなくて、恥ずかしいから。でも、みんなは……。

「石になりたくないなら、目を合わせない方がいいよ」


「そこまで言います?」

「うん、言えるね」

 どんな言葉をかけられたって、ずっと憧れて、いつの日もレディ・ボスに会える日を待ち焦がれていた私は変わらない。この会社で、私ほどM.L.サマナン*のことをよく知っている人はいない自信がある。大ファンって言ってもいいくらいに。


 十年も経った……。あの女性に会える時をずっと待って……。


美しいその人をずっと忘れられなかった私と違って、あの人は私を覚えていないらしい。でも、大丈夫。ここに来たのは、知り合いになるためじゃない。ただ、頭脳明晰で美しいあの人の生活を見て、一緒に過ごせる、それだけでもう十分。

 学期の途中で編入してきて、クラスの注目を集める転校生と同じように、男の先輩達がいそいそと新入社員の私に話かけてくる。オフィス中の注目を集めているみたいだけど、出来るだけ目立ちたくない。

 だって、女性はみんな心の奥で嫉妬を感じることがあるって思ってるから。女同士の揉め事に巻き込まれたくない。

 「この会社は以前、広告の制作や印刷の管理サービスを提供していました。ですが、デジタルコンテンツが主流になってから、生き残るために変わったんです。今は、デジタルメディアのコンテンツ制作とSNSのマーケティングをメインにしています」

 これは、サムさん……みんなの呼び方だとレディ・ボスの話していたこと。あぁ……いつか、絶対にあの人みたいになりたい。今は資料管理と、部署の先輩のためにアポイントを取ることしかできないけど……。

 それでも、私は幸せ。だって、仕事を任せてもらえるだけじゃなくて、すりガラスの部屋にいるあの人を見守ることができる。たまに、あの部屋からトイレに行く姿を見かけるけど、あの人は寄り道もせず、すぐに戻って仕事に没頭してる。仕事に対して、すごく真面目みたい。

 あの人の彼氏の事を考えると羨ましい。でも可哀想。だって、こんなに完璧な女性と付き合ったら、プライドが傷つくと思うから。

「みんな、準備はいい?」

 時計の針が午後6時を指した途端に、カジュアルな黒いスーツを着たハンサムな男性が現れて、素敵な笑顔で明るくそう言った。それを見たみんなは作業をやめて、笑顔になった。あの人とはまるで違う。

 「準備できました!」

 オフィスにいる全員が喜んでそう答えた。もちろん、私も含めて。仕事が終わったから、お待ちかねのパーティの時間!


 あぁ……ドキドキしてる。やっとレディ・ボスと会える時が来たから。

「じゃあ、ナモカフェで待ち合わせをしようか……今日は食べ放題。乾杯しよう」


「やったー!」

 みんなが盛大に拍手をした。まるで、自分の国の選手がオリンピックで金メダルを取ったときみたい。でも「冷凍庫」と呼ばれているあの部屋のドアが開いた瞬間、一斉に静かになった。レディ・ボスが出てきたから。

 シンプルな黒のシャツを着ているだけでも、ハイブランドみたいに感じる。髪はきっちりと高い位置で結ばれた、一糸乱れぬ完璧なヘアスタイル。その甘い顔立ちは、ものすごく美人とまで言わなくても、みんなが思わず立ち止まっちゃうくらいのレベル。そんなあの人が、薄い茶色の瞳でオフィス全体を見回している。

「なんでそんなに騒いでいるのかしら。夕食を食べた事がないの?」

 少し鼻にかかった声でそう言って、鞄を持ち上げた。

「あなたもそう。自分の事テロリストのリーダーだと思ってる? 声がうるさいわ」

「意地悪だなぁ」


 男性は片方の手で、素敵なその人の肩を抱いた。それを見ると、なんだかすごく落ち着かない。細身のあの人を大事に守りたいような気持ちがして。

「触らないで」

「恥ずかしがり屋さんだね。さぁ、みんな行こうか」




 男性の言葉でみんなは気を取り直して動き始めた。今はもう最初の時みたいに大きな声を出してはしゃいだりしていなくて。みんなはあの素敵なレディ・ボスに緊張してるんだって、ちょっと笑いたくなってきた。もしかしたら、あの人のことを「可愛い」と思っているのは、私しかいないのかもしれない。

 ナモカフェは、このパーティのために貸切になっていた。ここのオーナーさんはカークさんの友達らしい。それから、さっき分かったことがある。あの明るく爽やかな男性は、会社のオーナーで、レディ・ボスの「婚約者」だった。

 すごくお似合いのカップル。


 みんなが緊張しないようにって、ボスとカークさんの席は別になっていた。サムさんに会えるチャンスだと思っていたのに、残念。

「どうしたの? 気分が悪いみたい」

 元気をなくしてトイレの鏡に映る自分を眺めていると、先輩が、メイクをしながら話かけてくれた。

「気分が悪い訳ではなくて。ただ、今日はサムさんとお会いできると思っていたので……。少し残念で」


「やだやだ。会わなくて済むのは良いことよ。じゃないとご飯が美味しくなくなっちゃう」


「どうしてですか?」


「あの冷たい女と一緒にいると、食欲がなくなっちゃうのよ」


「本当よね」別の先輩も同意しながら、私に顔を近づけて囁いた。

「きっとボトックス注射の打ちすぎで顔が動かなくなっちゃったのかも。笑わないし、怒りの感情しか持ってないのよ」


「みんなが怖がっていますよね」何も知らない新入社員の私がそう言うと、頷いて説明してくれた。


「何を考えているのか分からないの。だから、どんな事を思っているのか想像すらできなくて。怒っていても表情に出ないしね。ましてや、優しい時も一切ない。経理部と購買部の人が付き合ってるのがバレた時も怒った顔すら見せなかったわ。多分、顔の細胞が全部死んでる」

「感情が分からないから怖いってみんな思っているんですかね? 気が短いからじゃないかって思いました」


「気が短い人のほうがマシ。なんとかできるから。この人は冷た過ぎるの」


「そんなことありません。私が知っているサムさんはそんな人じゃありませんでした」


「そんなに仲良かったの? あなた」


「仲良いって言えないかもしれないけど、あの方が笑うと世界が美しく見えます。犬が好きで……」


「レディは犬好きなの? 猫派だと思ってた」リップを塗り終わった先輩はトイレから離れようとしてこう言った。


「早く来なさい。料理がなくなっちゃう」


「はい」


 みんなが離れた後も、私はまだトイレの中にいた。残念な気持ちのままだったから。今日の期待は全部打ち砕かれてしまったみたい。一分でもあの人の顔を見たいだけなのに。ちゃんと見える距離で、目を合わせたい。でも、今はそんなチャンスなんてない。

 今まで頑張ってきたのは、無駄だった……。死にそうなくらいの絶望を味わいながら、肩を落として自分の足元を見ていた。その時、トイレの一室から水が流れる音が聞こえた。まだ人がいたの?気づかなかった。

ガチャ……。ギー。

 ドアが開かれる音と一緒に、私と背丈が同じくらいの小さな誰かさんが出てきた。シャネルの五番の香りが広がって、私は背筋を伸ばした。心臓が強くドクンと波打つ。

 こんな会い方になるなんて。トイレの鏡を通して、私と薄い茶色の瞳を持ったあの人の視線がぶつかる。

「あたしが犬好きって誰から聞いたの?」

 うわっ!






 

*モン

本名が長いタイ人は、本名では呼び合わないため、もう一つの名前のような扱いでニックネーム(チューレン)を使用する。自身の生まれた時に家族がつけることが多い。変更もできる。


*フェーンデイ

英語タイトルは「Oneday」。タイの有名な監督バンジョン・ピサンタナクーン氏がメガホンをとった作品で、北海道札幌市でも撮影が行われた。


*M.L.サマナン

レディ・ボス、つまりサムの本名。M.L.はタイの王族を示す言葉。



 

こちらはGAP Pink Theory配信版です。

無断転載等は一切禁止いたします。詳細はこちらでご確認ください。



bottom of page